2025年が明けました。今年もよろしくお願い致します。
昨年10月に父を亡くし、おのずと死というものをリアルに感じるようになった昨今です。偶然にも、昨年にお父様を亡くされた同年代の友達が数人いて、心の状況をわかちあったりしました。70代でしたが数ヶ月前まで元気だったので、「そんなにいきなり逝くのか」という驚き。病気が体中を蝕んでしまう速度も速く、特効薬も治療法もないと言われた中で、それでも「もう少し生きたい」という欲求を言葉にしながら闘病していました。私の父は2024年2月頃まで己の得意領域で仕事に打ち込んでいたので、心身衰えることなく精一杯生き抜いたまま逝ってしまったことは、ある意味生き様としては理想的でかっこよいなと今では思います。生来のせっかちがここでも出たのかな…とは思いましたが。
#私が父から託されたほぼ最後の言葉は
#「おまえは電気のことが結局全然わかってないままだから」
#「ショートして火事を起こすな」でした
#すいません…
人は意に反して生まれ、意に反して死ぬ。その瞬間は自分ではコントロールができません。こうして何事もなく普通に呼吸をして心臓は動いているけど、いつか事切れるときが誰しも訪れます。高齢化社会なのでにわかに実感しにくいですが、本当に死ぬんだ、死ぬんだな、死ぬんだ、、、それがいつかはわからないんだ、とか色々考えると、今この時をものすごく無為に使ってしまっている後悔の念が募ります。でも仏壇の位牌に手を合わせる度に、その感覚は残念ながら少しずつ薄れていってしまうのを感じます。忙しない日常が訪れ、父のいない地球にも違和感が少しずつなくなってきている自分もいます。そのために、節目の法要があるのかなと思ったりもしました。
ただ父の死が影響しているのかしていないのかわかりませんが、最近の心境の変化としては、自己承認欲求とか自己顕示欲などから来ている「ナニモノにもなれない自分の否定と葛藤」の残骸が消えたな、という気がしております。端から見ると諦念なのかもしれませんが、大事なのはそこじゃないということにようやく気づいたというか。仕事に時間を投入してきた見返りとしての証明書なのか勲章なのか称賛の声なのか、そんなものが欲しかったのだと思うのですが、そんな大したタマじゃないという身の丈がようやくわかってきたし、でもそれは「しょうもない人生だった」という意味ではなく、まぁ所詮そんな程度だけどそこそこ面白くやってきてるじゃないか、という自分へのOKサインなのかもしれません。こんな人生でもまあ悪くないんじゃないの、ということです。
それはこれ以上の進化を止めても良いという意味ではなく、過去を肯定して良いということだと思っています。いやぁ、ここに思い至るまでにかなり長い時間こじらせてしまいました。今までミッドライフ・クライシスだまずいまずいーーとこのニュースレターでも騒いでいましたけど、もちろん今でも悩み患うこと沢山あるし、欲しいものがなかなか見つからないわけですが、雑念がようやく晴れてきた感あります。これも父からのプレゼントなのかもしれません。
てなわけで、2025年もどうかお付き合いください。好きなこと楽しいこと、色々やったり話したり笑ったり、共にしていきましょう!どうぞよろしくお願いいたします。
表題は中原中也の「春日狂想」の一遍。world’s end girlfriendがBOOLをfeaturingしてポエトリーリーディングしているのが好きです。
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