午前中の大嵐はひどかったですね。朝から出かけた方々はお疲れ様でした。はい、これは昨日の話です。昨日の火曜回帰Φ瑠はニューロ・ダイバーシティについてです。
幾度となくPodcastでも話しているのですが、私の「ゼロビジョン」問題。言葉の通り、特にビジョンがないわ、という件です。周りにビジョンだらけの人が多いので、おのずとコンプレックスをこじらせております。ビジョン(What)は誰かが落としてくれて、その実現(How)を研ぎ澄ますことに邁進してきた者のこじらせ。カッコ悪い、、とずっと思ってきました。
いま「光る君へ」にハマっているので、先日NHKの「100de名著-源氏物語」の再放送があったので見ました。その中で、「自分は何をしたいのかがわからない」上流貴族たちが描かれている帖が紹介されていたのですが、それも「現状生きることに困っていないからそんなことに悩む」という解説がなされていました。困ってない。つまり私もそういうことなのだろうと改めて思いました。私は決してイスタブリッシュメントではないですが、恵まれた暇人なのです。否、忙しいっちゃ忙しいのですが、見方を変えると忙しくしなくても生きていけるのに忙しくしているだけで、精神的にはおそらく暇なのです。
この暇な時間が嫌で、無意識に何かで埋めたくなる。仕事だけで埋めるわけではなく、仕事で疲れたら、それ以外は適当な娯楽でわずかなスキマでさえも埋めることに躍起になっています。目も耳も口も、何かで埋めたくなる。自ら能動的に時間を作って思考を深める、究極的には瞑想で頭を無にする、ということもできなくなっています。
#瞑想ってほんと苦手
#一時期流行ったけど
#今もやってる人いるのかな
こういう自分を今日メタ認知して、ふっと気持ちがゆるんだ気もしています。この暇な自分がいるというのはやはりもったいない。「何かしなくては」という気持ちだけが先走っていたのですが、何をするのかという「What」が欲しいと躍起になり続けていたその思考起点を変えて、「How」、どんな風にするのが好きなのか、からスタートし、そこから興味のあることを、そのやり方でひとまずやってみる方が、よほどイキイキするんじゃないか、と思います。
人生の意味、としての「ビジョン」「理念」の発見だけにこだわっていると見つからない人もいます。そうではなくて、How起点で、「こういう好きなやり方で、何かする」というアプローチ。その「何か」は興味があればなんでもよく、社会課題の解決じゃなくてもよい。己の生まれた意味とか考え始めるとほんとに何も始まらない。ビジョン至上主義へのオルタナティブも、市民権が欲しいんだ。
WhatもWhyも後付けの人生。あとから理由を探したらいい。そんなんでしか生きられない人間もいるのに、幼少期から幾度となく聞かれてきた「やりたいことはなに?」の呪いから解き放たれても良い時代になったらいいのにな。一度「ビジョン」から忘れて生きた方が、案外見つかったりするかもしれません。
遅咲き人生を目指そう。It’s never too late.
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