こんばんは。今日も立て込んでいて25時より執筆開始です。午前中に「明日までに回答ください」という依頼がクライアントのお客様から来たので、急だなぁと思いつつホイホイ対応してクライアントに投げたら、「こんな急な依頼は非人道的で困る!おれは●●と●●で出張があってこんなに忙しくて・・云々」と怒られました。スタートアップのクライアントだと特に拒否らないタイムラインなので、ちょっとうっかりしておりました。時の流れって組織によって違うんですね。
OpenWorkというサービスがあります。転職・就職のための情報プラットフォームということで、求人サービスもあり、登録するとスカウトなんかも来るのですが、面白いのが元社員・現役社員の本音クチコミが沢山載っていることです。非常に味わい深い内容に仕上がっています。
OpenWorkは社員や元社員、一人ひとりの声をシェアすることによって、ジョブマーケットの透明性向上に貢献してきました。特定の企業への就職・転職を考えているユーザーに対して様々な視点からのクチコミを提供することで、就職・転職検討時のリサーチサイトとして日々成長しています。
(中略)
求人サイトなど、仕事選びを行うジョブマーケットでは、キャッチコピーや広告予算が「企業の採用力」を左右するべきではなく、その企業で働く社員が実際に感じた「働きがい」こそが「企業の採用力」を決めるべきだと私たちは考えます。
法人相手の仕事が多いので、このサイトを見ては、相手先の社風を推し量るということをよくやっています。
キャッチコピーや広告予算が「企業の採用力」を左右するべきではなく、その企業で働く社員が実際に感じた「働きがい」こそが「企業の採用力」を決めるべき
とありますが、全くその通りで素晴らしい理念だなと思います。
しかし…
ご覧いただければわかると思うのですが、往々にして不平不満のある元社員・現役社員の恨み辛み嫉みの巣窟になっており、これを読むと「どこも病んでるな…」という感慨に耽ることができます。それもそのはず、転職を考えている人が転職先として興味のある会社の実態を知りたいという欲求から始まり、そのためには自分がまずクチコミを書かないと多くの情報量を得られないというユーザージャーニーになっているからです。クチコミ件数がとても多いことは良いのですが、ネガティブ寄りに偏りがあるように見えます。ただどれも声なき声の叫びなので、労働者の悲哀がこれでもかと蓄積されています。現代版「ああ野麦峠」とでも言いましょうか。
#「さぁ自由に生きよう」と言われても
#どこにも行き場なんてない感のあるクチコミ
真面目に読みこむと、「ああどの会社にも行きたくない…」と思いますが、そうはいっても粛々と働いている人たちがしっかり支えて回っているわけなので、みんな頑張ってるなぁと尊敬の気持ちが溢れてきます。しかし、壮年の元会社員としては、会社という器への接続の仕方を、もう少し距離を置いて見てみると楽になれる気がするのですよ。
日本人は「うちの○○」という言葉をよく使います。私なんて未だに前職の会社のことを話す時に「うちの会社の場合は〜」なんていう言葉が出てしまうぐらい、「ウチ」感覚が染み付いています。自分のことを私ではなく「ウチ」っていう人もいましたし、幼いころから自宅のことも「うちんち」って言ってませんでしたか?
#うんちっち
この「ウチ」というのは、自分の内側と認識している領域のことだと考えると、内と外という境界をすごく無自覚に意識している種族なのではないかなと思います。日本人だけなのか、そうでないのか。英語の「ウチ」はinside〜だと思うので、英語圏の人にこういう概念はなさそうです。
私には語るほどの見識はないのですが、近現代において色々な社会問題の根幹と言われているのが、消滅したはずの「家制度」であり、それがこの「ウチ」概念に一役買っていそうな気がします。(現民法の夫婦同氏規定を家制度の名残とみて、選択的夫婦別氏(姓)制を導入すべきという主張があります。詳しいことをお知りになりたい方は詳しい人を紹介します)
家制度とは、1898年(明治31年)に制定された明治憲法下の民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。この規定が効力を有していたのは、1898年7月16日から1947年5月2日までの48年9か月半ほどの期間であった。
ちょうど、我々の両親のその親世代が真っ盛りだったようです。なるほど、これは世代間衝突も否めません。親世代から引き継がれ無自覚に染み付いた「ウチ」感覚が、我々世代にもうっすら踏襲されているのだと考えます。
今、NHKの朝ドラの「らんまん」もまさにこの世界。本家!分家!ってめちゃくちゃ本気でピリピリしています。
以前、「世の中に境界はあるのか?」という問いを真剣に考えたことがあります。会社を辞める前に受けた氷解塾という私塾で、「自分と他者を分け隔てる私たちの意識が、人間の孤独や争いを生み出し平和を損なっている事実に目を向け、あらゆる境界というものが、実際には存在せず、意識が設けた幻想に過ぎない可能性について考察」するというプログラムがありました。
そこでの結論は、
・争いや不幸の背景は自己と他者の分離感からくる恐れが存在する。
・物理的事実としての境界はなく、ただの人間が作り出した概念・想念である。
・境界意識=「悪」ではない。境界意識の発達は自我の形成で あり、人間の成⻑の前半に必要なプロセスである。そしてその後に訪れる境界意識か らの脱却プロセスと相まって人間の成長サイクルを構成する要素である。
というものでした。私も基本同意しています。
つまり、境界意識があるから自我が形成されてアイデンティティも確立できるが、いずれそこを脱却するサイクルが訪れて更に人間は成長していく、ということです。
昨今、「多様性を受け入れましょう」ということを声高に当たり前に叫べるようになってきて、ようやくOneness的な活動も活発になってきました。本来は「受け入れる」なんていう言葉もデリカシーがなさすぎるし、「自称マジョリティ」群の浅はかさと烏滸がましさに虫酸が走ります。でも、類人猿が進化して言語を操り始め、国家や社会を形成し、他者を凌ぐことで生き抜いてきたホモサピエンスが、今度は「多様性の包摂」という観点まで到達したことは、一種の祝祭の境地でもあると思います。これも、さきほどの成長サイクルの後半に至った証拠なのかもしれません。
それを裏付けるかのように世界情勢も混沌としてきていますが、私の意識としては、もはや国や境界というものの「意味」や「意義」が、よく分からなくなってきています。よくよく考えて、なんで同じことを人間は繰り返すのか、なぜ奪い合うのか、競争し合うのか。本当に冷静によく考えると、不思議で仕方ないというか、動物的な「サガ」という言葉ぐらいでしか理由がつかないというか、本当にコスパの悪いことをしているなと思うわけです。
#キングダムの戦乱の世はあれはあれで面白い
#嬴政はやはりOnenessを目指したわけだからやっぱすごい
私がうっかり「ウチの会社」と口走ってしまうところにもあるように、どうしても揺るぎない足場意識というのは、契約上の雇用関係がない状態にもかかわらず、もう無意識に出てきてしまうわけです。この「ウチ」感覚のサガ、ここからの脱却が出来ると、一段レベルが上がる気がします。
境界意識を含めたアイデンティティの確立と多様性の包摂というのは、実はバランスが取れた話のようで取りづらい、これまで信じていた拠り所の喪失というものにも繋がりかねない、足元がぐらつく危うさを秘めているとも思えます。
しかしそれこそが、人生後半の成長サイクルの布石ということなのかもしれませんね。面白くなってまいりました。
生物や自然という次元から自分の存在と社会との関係を捉え直していく。つまり生命科学的思考から自分や世界を編集し直すことで、今後の世の中を良いように変化できる一助になれるのではないかな、と思っています。
というわけで、会社生活に悩んでいる方(ここに戻ってくる)、会社との距離を適切に取ることで、「ウチ」の境界概念をぼんやりさせてみると、少し楽になると思います。そして、思い切って飛び出すのも本当におすすめです。どうせ世の中はOnenessでつながっているわけです。つながっているから、なんとでもなります。
#と自分に言い聞かせる
OpenWorkを見て思った今日のコラムでした。
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